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アルビレックス新潟 名(迷)助っ人列伝 part3

前回の続きです。過去2回のリンクは下のとおり

 

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ミシェウ選手(MF・FW 2010〜2012)
当時J2降格直後のジェフから獲得した細身のブラジル人選手。ブラジル人選手らしく、圧倒的なテクニックを誇っていたが、ジェフ時代はケガに泣かされていた印象が強く、獲得を疑問視する見方もあったはず。(実際、私もそうだった。)
しかし、その見方を嘲笑うかのような活躍ぶり。2010年にはルシオ選手チョヨンチョル選手矢野貴章選手「ファンタスティック4」を形成し、新潟攻撃陣の中心として活躍。マルシオ選手もうまかったが、ミシェウ選手の技術力はマルシオ選手以上だったと思う。特に20節・川崎戦でヨンチョル選手へのアシストがあったが、そこで見せた上体だけを動かすフェイントは「分かっていても止められない」圧巻の身のこなしだった。
2011年からはマルシオ選手の移籍に伴い10番を背負う。背番号は変わってもプレーの質は変わらず、ハイレベルな技巧を見せ続けてくれた。特に6節・川崎戦ブルーノ・ロペス選手のゴールをアシストしたが、そのアシストとなったダイレクト浮き球パスは芸術的だった。
2012年は低迷するチームの中でも攻撃を支えるために奮闘を続けた。23節・鹿島戦ではチームのJ1通算100勝目に導く芸術的なループシュートを決めた。この年チームであげた29ゴールのなかでもベストゴール候補と言っていい、素晴らしいシュートだった。
結局3年にわたって新潟の攻撃を中心として支え続けてくれたミシェウ選手。彼のようなテクニシャンをもう1度見てみたい。
 
ブルーノロペス選手(FW 2011〜2013)
ルシオ選手が移籍し、得点源を失った新潟センターフォワードであるブルーノ・ロペス選手を獲得した。タイプとしてはエジミウソン選手からテクニックを引き、パワーを足したようなタイプといったところか。
新加入した2011年の開幕戦の福岡戦では左からのクロスに飛び込み、ダイビングヘッドで来日初ゴールを奪う幸先良いスタートを切る。18節のセレッソではペナルティエリア左サイドからドリブルで入り、角度がほとんどないところからアサイドをぶち抜くゴールを奪ったり、29節・川崎戦では「鬼門等々力」での勝利に導くカットインからの豪快なスーパーシュートを叩き込むなど、リーグ戦13ゴールを奪い、チームのJ1残留に貢献する。
ところが2012年は年間通して苦しんだ。開幕3試合で2ゴールを奪ったが、そこから6試合ノーゴール。1点奪ったあとは12試合ノーゴール。終止符を打ったのは25節・ガンバ戦でのアディショナルタイムでのPKだった。(ただ、このPKが残留には大きな得点だったのだが。)
27節・名古屋戦でスーパーミドルを突き刺し、ついに復活するかと思われたが、そこから6試合ノーゴールと再びスランプに。最終節・札幌戦で2ゴールを挙げ、奇跡のJ1残留に貢献したもののリーグ7ゴールと苦しみ続けた。
翌2013年も苦しみ、9試合ノーゴール。守備でも献身的な姿勢を見せ続けていたものの、川又堅碁選手にレギュラーを奪われたこともあり、シーズン途中に退団することに。
パワーとスピードを兼ね備えたいい選手だったのだが、負担が大きすぎたか。ゴールを奪うことに集中させてあげられれば、もっといい成績が残せたのかもしれない。チーム事情に苦しめられた選手だったと言っていいだろう。
 
アンデルソン選手(FW 2011~2013)
シーズン途中にウルグアイリーグから加入したブラジル人レフティ東日本大震災直後の日本、地震の恐怖に耐えられず退団する選手も続出していた中、日本でのプレーを決断してくれたことに感謝しないといけない。
左足の精度は高く、プレースキックを任されることも多かった。デビュー戦となった20節・清水戦ではコーナーキックから千葉和彦選手のゴールをアシスト。 22節の神戸戦ではゴールも決めるなど幸先良いスタートを切っていた。11試合1ゴールという結果だったが、ヨンチョル選手が移籍した2012年はサイドハーフとして活躍してくれるだろうと期待していた。ところが2012年は岡山へ、さらに2013年には当時JFL町田へレンタル移籍される。結局2年間のレンタル移籍期間が終わると、新潟との契約も満了し退団。出し続けていれば間違いなく戦力になれる選手だったと思うだけにもったいない印象を受けた。
 
キムジンス選手(DF 2012〜2014)
酒井高徳選手のドイツ移籍に伴い、空席となった左サイドバック。その座を担うべく、韓国からやってきた当時20歳のレフティー。加入当時は新潟の運動量を多く求めるサッカー・細かい戦術に相当苦労し、スタメン落ちする試合も多々あった。しかし腐らず努力を重ねると、終盤にはレギュラーに復帰。引き分け以下でJ2降格が決まる33節・仙台戦では貴重な先制ゴールを決め、勝利に大きく貢献。後の「奇跡の残留」の序章を作り上げた。
2013年には完全に左サイドバックのレギュラーに定着。クロスの精度、守備の強度ともにさらに成長し、チームに不可欠な存在になった。特に、28節・鳥栖での川又堅碁選手へのグラウンダーのクロスは最高品質だった。この年、チームは勝点55・7位に躍進したが、攻守に渡って献身的に走り続けるキムジンス選手の存在が大きかったのは間違いない。
2014年も引き続きレギュラーとして活躍。韓国代表にもコンスタントに招集されるようになると、このタイミングでドイツ・ブンデスリーガの強豪、ホッフェンハイムからオファーを受け、22歳の若さにして欧州移籍を実現させた。
酒井高徳選手と同様に、新潟から欧州へ羽ばたいた選手として、新潟サポーターの自慢の1つだ。
30歳になったら、また新潟でプレーしたいと言ってくれていたキムジンス選手。それを現実とするためにも、チームはJ1に復帰したいところだ。
 
アランミネイロ選手(MF 2012)
 攻撃力アップ、セットプレー強化のため、新潟が白羽の矢を立てたのが、このアランミネイロ選手だった。プレースキッカーが欲しい新潟にとってはかなり期待していたはずの選手。しかし、来日したときの姿を見て思わず、「太いだろっ!!」とツッコまざるを得ないフォルム。現に減量のためにキャンプ最初の1週間くらいは走り込みばかり。なんだそりゃ(笑)
開幕の時にはまだ見れる体つきになったが、それでもサッカー選手としては太り過ぎで、とにかく動きが重い。この選手が開幕から動ける状態だったら残留争いに苦しむことはなかっただろう。
夏場からにはある程度細くなり、やっと動ける状態に。とはいえ、新潟が求める運動量などは期待できず、この年の途中から就任した柳下正明監督の下では途中出場が多かった。
しかし終盤戦では攻撃力強化のため、藤田征也選手に代わって右サイドハーフのスタメンを張る。31節・清水戦ではコーナーキックから決勝点を演出。その後も自慢の攻撃力をアピールし続けると、34節・札幌戦で出場停止のミシェウ選手に代わって2トップの一角として出場。すると前半8分、坪内秀介選手の先制ゴールをアシスト。その後もプレースキックでチャンスを演出し続けると、43分にはブルーノロペス選手のゴールをコーナーキックから演出。後半、チームは1点差に迫られた上、さらに攻め込まれる展開を迎えていたが、71分にフェイントをかけ相手DFを剥がすと、豪快なミドルシュートを突き刺し、追加点。さらに80分には自らのシュートのこぼれ球に反応し、相手キーパーを交わしてクロスをあげ、ブルーノロペス選手のゴールをアシスト。結局この試合の4得点すべてに絡む活躍ぶりで、チームの奇跡の残留に貢献した。
結局、この年限りで退団。札幌戦を見ている限りではもう1年見ても良かったと思うが、やはり序盤から中盤のイメージが悪かったか。個人的にはFWの控えとして残しておくのもありかと思っていたのだが。
 
キムクナン選手(DF 2013)
横浜FMから加入した193センチの超大型センターバック。身体能力の高さは折り紙付きで、センターバックのコンビを組んだ大井健太郎選手との連携も悪くなかった。
開幕してから3試合、チームは2ゴールを挙げていたが、この2ゴールはいずれもキムクナン選手のゴール。一時期は「キムクナン選手がチーム得点王になるのではないか」とも言われたとか。
その後もレギュラーとして活躍を続けていたが、8月に舞行龍ジェームズ選手が長崎から復帰すると、レギュラーを奪われてしまう。追い討ちをかけるように10月の天皇杯大分戦で全治8ヶ月の怪我を負い、そのままシーズン終了。2014年から母国・韓国に復帰することとなり、新潟を退団した。韓国復帰後はACLにも出場するなどの経験も積んでおり、しっかりとしたキャリアを歩めているようだ。
 
レオシルバ選手(MF 2013〜2016)
新潟の歴史を語る上で欠かせない、「神助っ人」⑤にして、新潟史上最強助っ人
ブラジル1部・ポルトゲーザでレギュラーとしての地位を築き、ゲームキャプテンも務めていた彼がなぜ新潟を選んでくれたのかと疑問に思ったが、アンデルソン・リマさん(part2を参照)の助言があったからだった。
 
そんなレオシルバ選手だが、1年目から格の違いを見せつける。圧倒的なボール奪取能力でボールを奪い、的確にボールを散らしフィニッシュの局面にも絡む。12節・大分戦ナビスコ杯・名古屋戦では繊細かつ豪快な右足(byジョンカビラ)からミドルシュートを突き刺すといったシーンもあった。柳下正明監督からの信頼も早い段階で掴み、いつしか彼中心のチーム作りになっていった。レオシルバ選手の出来でチームの勝敗が決まるといっても過言ではないほどの存在となり、チームの7位躍進に大きく貢献。 結局はこのシーズン、Jリーグの優秀選手賞に選ばれた。
さらに凄かったのが2014年。自慢のボール奪取能力はさらに凄みを増していた。象徴的なのは7節・鹿島戦新潟守備陣2対5鹿島攻撃陣という絶望的な局面であるにもかかわらず、柴崎岳選手のドリブルがちょっとだけ大きくなったところを狙って、あっさりとボール奪ってしまうシーンだ。
さらに、この年からはフリーキックも任されるようになる。すると、9節・徳島戦、 23節・仙台戦、27節・川崎戦、32節・FC東京の4試合で直接フリーキックを叩き込むという暴れっぷり。特に川崎戦フリーキックは約30メートルほどの距離から右隅の「ここしかない」というコースに叩き込んだもので、この年の新潟ベストゴールと言って良いだろう。また、仙台戦のゴールは強雨が降りつける劣悪なコンディションの中で突き刺した決勝点で、このゴールもベストゴール候補だ。この活躍ぶりが評価され、12位のチームからでは異例となる、Jリーグベストイレブンに輝いた。(しかも最多得票での受賞!)
しかし、2015シーズン1stステージ中、急性胆嚢炎で一時的にチームを離脱する。復帰後も過去2年に比べるとやや低調な出来に終始した。チームもその影響からか15位に低迷。残留争いに終始することになる。2016年はフォーメーションの変更に伴い、それまでのボランチから1列前の位置でプレーすることが多くなった。前年のプレーに比べると、かなり本調子に戻っていた印象だが、肝心のチームは前年以上の低迷ぶり。残留するのがやっとの状態であった。
結局この年のオフ、鹿島へ移籍する。レオシルバ選手ラファエルシルバ選手(後述)がいて、2年連続15位、残留するのがやっとだった新潟。いかにフロントが迷走していたかが分かる。
 
ホージェルガウーショ選手(MF 2013)
個性的な髪型が目立つドリブラータイプの選手。2013年途中、ブルーノロペス選手の退団もあって、新潟に期限付きの形で加入した。
持ち味は独特な髪型・・・ではなく、独特なリズムのドリブル。それまでの新潟にはいないタイプの選手だったことから、攻撃のアクセントをつけたい時には、ガウーショ選手が投入されることが多かった。2013年23節・磐田戦では武器であるドリブルで相手DFを次々と交わして、左足で豪快に決めるといった、「THE・個人技」のゴールを決めてみせた。
さらに2014年の開幕戦・仙台戦では、1-1の状況から途中出場でピッチに入ると、88分に左足で豪快なミドルシュートを決め、これが決勝点。チームに開幕勝利をもたらした。2014年の5月に、所属元のチームから復帰の依頼を受け、新潟を退団。約1年で10試合2ゴールと特筆した成績を残していたわけではないが、その髪型と新潟であげた2ゴールが強烈なインパクトだったからか、印象に残る選手だ。
 
イミョンジェ選手(DF 2014)
キムジンス選手ドイツ移籍に伴い空席になった左サイドバックの座を担うべく、新潟に加入した韓国人レフティー。結構期待されていたのだが、前任者の存在の大きさに加え、シーズン途中からの加入で、チームにフィットすることができぬまま、わずか5試合の出場に終わってしまった。
新潟退団後は韓国の名門・蔚山現代に復帰し、レギュラーとして活躍を続けているそう。新潟でキャリアを崩さなくてよかった。
 
ラファエルシルバ選手(FW 2014〜2016)
川又堅碁選手のシーズン途中移籍の影響もあり、途中加入したブラジル人ストライカスピード、パワー、シュート精度の高さ、どれをとっても一級品で、能力だけならエジミウソン選手をも上回りそうなレベルだった。ただし、その圧倒的ともいえる能力に自らの身体がついて行かず、怪我が多かったのも事実。実際、2014年は途中加入とはいえ7試合、2015年は17試合にとどまり、シーズンの半分稼働するか否かという感じであった。2016年は23試合に出場し11ゴールを決め、能力の高さを証明したが、2度の退場処分を喰らうなど、精神面の未熟さを露呈することもあった。ただ、チームの低迷ぶりにフラストレーションを溜めていたとも言え、一概にラファエル選手だけの問題とも言えないのも間違いない。
2017年から浦和に移籍。浦和ではリーグ戦25試合12ゴールを決める活躍。さらに、ACLでは11試合9ゴールを決める大活躍。チームのACL優勝に大きく貢献した。
現在は中国の武漢に所属。新型ウイルスに怯えているという報道もあるが、果たしてJリーグ復帰なんてことはあるだろうか。
 
ソンジュフン選(DF 2014〜2018)
2014年、韓国の大学から直接新潟に加入した190センチの逸材。高さだけでなく、速さ、強さ、足下の技術を兼ね備えるプレーヤーという前評判で、実際のプレーぶりもそのとおりだったのだが、とにかく集中力の欠如が目立ち、1試合に2、3回はマークを見失ったり、複数回のポカミスを起こすなどといったことが多々あった。
2015年〜2016年までは水戸期限付き移籍していたが、そこでもレギュラーを掴むには至ってなかった。ところが2017年に新潟に復帰すると、J1で27試合に出場する。J2でもレギュラーをつかめていない選手がレギュラーになってしまうほど、このときの新潟選手層が薄かったといえる。
その2017年、最終盤6試合で5勝1分という好成績に貢献し、「J2であれば相当な力を発揮する」と思われたが、結局はJ2でも欠点である集中力の欠如、ポカミスが目立ち、失点を重ねる要因になってしまっていた。結局レギュラーを剥奪され、2018年限りで退団。
持っているポテンシャルは確かだったが、とにかく集中力の欠如、ポカミスが才能の開花を防いでいるといった印象が強い選手だった。
 
 
 
やはりこの時期はキャラの濃い選手がそろっている。アランミネイロ選手ホージェルガウーショ選手のように見た目のインパクトのある選手もいた時代だった。
 
次がラストになります。
 

アルビレックス新潟 名(迷)助っ人列伝 part2

前回の続きです。前回のリンクは下のとおり

 

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アンデルソンリマ選手(DF 2005)
J1昇格2年目を迎えた新潟が補強の目玉として獲得した元ブラジル代表の右サイドバック。ただし、右サイドバックとしての能力よりもブラジルでも随一と言われるプレースキッカーとしての能力の方が期待されていた。そのキックの質は確かで、第4節・大宮戦での同点ゴールや第10節・川崎戦での伝説の逆転ゴールなど、数々の名場面を生んできた。一方守備力はお世辞にも高いとはいえず、シーズン中盤以降は3バック導入もあって、右サイドバックでのプレーはなくなった。結局はエジミウソン選手ファビーニョとの「ブラジル人3トップ」を形成し、FWとしてのプレーが主となり、ブラジル人3人の連携で点を取る形が終盤戦の新潟の戦い方となった。
30試合8ゴール、フリーキックで4ゴールと結果を残して退団。退団後もルシオリシャルデス選手レオシルバ選手に新潟移籍を紹介するなど、プレー以外でも貢献してくれている。
 
シルビーニョ選手(MF 2006〜2007)
 ボランチのレベルアップのため、新潟が白羽の矢を立てたのは、4年間仙台で活躍していたシルビーニョ選手だった。
的確なボール配球、効果的な攻め上がりなどを安定して高いレベルで見せつけ新潟の「中盤力」を引き上げた個人的には2007年第6節のガンバ戦で見せた強烈な左足ミドルは印象的。(雨でボールが滑るところをうまく利用していた)
2006年はエジミウソン選手ファビーニョ選手が怪我などで出場機会減少していた中、30試合出場して、しっかりとチームに貢献しかし2007年は怪我を負い、22試合出場に留まり、この年限りで新潟を去った。
2010年には横浜FCに在籍し、レギュラーとして活躍していたが、外国人選手枠の関係で契約解除されるなど、不遇だった。
 
ルシオリシャルデス選手(MF 2007〜2010)
新潟の歴史を語る上で欠かせない、「神助っ人」④
開幕するギリギリのタイミングで加入が発表されたが、第2節・浦和戦で途中出場すると、後半ロスタイムにフワリとした浮き球を供給し、田中亜土夢選手の同点ゴールをアシストするという、鮮烈なデビューを果たす。
その後も活躍を見せ続けたルシオ選手。加入1年目の2007年から28試合9ゴールと活躍を見せた。翌2008年は開幕から怪我で数試合欠場したが、その間の新潟の得点力不足は壊滅的で、1年で「マルシオ依存症」になっていることがよくわかった。ちなみに、2008年から2010年までの3年間、ルシオ選手欠場時には1度も白星を挙げていない23試合で0勝9分14敗)ということだけでもどれだけ依存していたかがお分かりいただけるだろう。
2008年26節・神戸戦でのオーバーヘッドシュートや2009年28節・鹿島戦でのダイビング右足裏ボレーなど、数々のスーパーゴールを決めてきたマルシオ選手だったが、圧巻は2010年だ。この年、26試合で16ゴールを奪ったが、そのうち7ゴールが直接フリーキックという驚異的な数字をたたき出した。特に14節・仙台戦ではPK・フリーキックコーナーキックプレースキック3つでハットトリックというおそらく今後も出てこないであろう記録を成し遂げた。
新潟での4年間でリーグ戦107試合・38ゴールの記録と数々の伝説を残して、2011年から浦和へ移籍。しかし、浦和では本来の輝きを放てず、上手くいっていないなという印象が残っている。結局2014年限りで浦和を退団。現在は現役を退いているそうだ。
 
 
アレッサンドロ選手(FW 2008)
前年までエースとして活躍していたエジミウソン選手浦和に移籍し、その後釜候補として加入したのが、このアレッサンドロ選手。圧倒的な個の能力を持った前任者とは異なり、ゴールへの嗅覚が鋭く、ワンタッチゴーラーといった感じの印象で、周りとの連携がかなり重要になる選手だった。そのせいか、開幕してから5試合は無得点で、新潟のスタートダッシュの失敗に繋がってしまっていた。それでも6節のガンバ戦で2ゴールを決めると、中盤戦まではコンスタントにゴールを決めて、19節・札幌戦終了時点で18試合10ゴールとエースとしての役割は果たしていた。
ところがそこから12試合に出場して3ゴールと失速。しかも、残留争い中の32節・大宮戦では2ゴールを決めたものの、2点目の直後にユニフォームを脱いで2枚目のイエローカードを喰らって退場。数的不利になった新潟は追いつかれて引き分けに終わってしまい、残留を決められなかったというあまりにも有名なマヌケエピソードがある。結局30試合13ゴールと一定の成績は残していたが、フィジカルの弱さや大宮戦で見せたような注意力の欠如などが決め手となったか、この年限りで退団。ちなみにフリーキックは結構うまく、ナビスコ杯ではゴールも奪っている。また、PKはかなり強い力で思い切り蹴り込むのも特徴。
2014年には京都に在籍するも、結果は残せず、途中退団する結果に。
 
ダヴィ選手(MF 2008)
ルシオ選手アレッサンドロ選手に続く2008シーズン第3の外国人。左サイドハーフを主戦場とした攻撃的な選手だったが、正直活躍しているところを覚えていない。10試合0ゴールの結果で5月には途中退団。当時の新潟にしては珍しい「ハズレ外国人」と言える。しかし、中国リーグでは活躍していたらしく、広州富力(あの「ピクシー」ことストイコビッチ監督も指揮していたチーム)では79試合24ゴールを奪う活躍。2014年にはベストイレブンにも選ばれていて、スカウトの目利きは確かだったらしい。あの年の新潟ポストプレーが出来るFWがいれば活躍できていたのかもしれない。
 
アウグスト選手(MF 2008)
ダヴィ選手の退団に伴い獲得した同ポジションのブラジル人選手。2006年には横浜FCで活躍し、J1昇格に貢献。2007年は大分では10番を背負いそれなりにやっていたが、故障で離脱して退団していた。
日本での経験もあり、横浜FC大分でもなかなか良いプレーをしていた印象があったので期待していたのだが、新潟では故障続きで全くといって良いほど活躍できず。ただでさえ薄い選手層に拍車をかける結果に。4試合出場で終わり、ノーインパクトのまま退団。
 
ペドロジュニオール選手(FW 2009)
前年の深刻な得点力不足を打開するべく、大宮から獲得したスピードスターにしてドリブラードリブラーと言ってもただのドリブラーではなく、シュートのうまさも兼ね備えていた。4-3-3システムの左WGを任され、ゴールを量産。特に16節の柏戦の3点目、自陣でボールを奪い、約50メートルをドリブル相手を次々抜いて左足で豪快に決めたゴールは爽快かつペドロ選手の能力の高さをまざまざと見せつけたゴールだった。
(ちなみに、直前に所属していた大宮での2年間は怪我が多いイメージだったので、獲得時に不安でしかなかったのは私の見る目のなさを示している。)
チームも3位に躍進していて、得点もハイペースで取れていた(21試合10ゴール)ので、後半戦の活躍にも期待していたのだが、8月にまさかのガンバ移籍が発表される。
ところがドリブラーの彼に対してガンバの西野監督(当時)は「3タッチ禁止」「持ち過ぎ禁止」などを課していたらしい。そんな制約をしていたら当然ながらペドロ選手の持ち味が活きるわけがない。ストレスを溜めたペドロ選手は翌2010年第3節の新潟戦西野監督に対して暴言を吐いた上、侮辱行為を働き、チームから干されることに。そして事実上の戦力外となった。新潟に残っていれば活躍できていたのに。(笑)
 
ところが、その後も日本でプレーをする機会が多く、FC東京神戸鹿島と3クラブでプレーした。日本だけで6クラブもプレーした選手は、鹿島などで活躍したマルキーニョス選手、福岡などで活躍したアレックス選手、そしてこの選手くらいなものだろう。日本自体は好きだったのだろう。
 
 
チョヨンチョル選手(FW 2009〜2011、2019)
横浜FCから獲得した当時19歳の韓国人ウインガー。3トップが矢野貴章選手大島秀夫選手ペドロジュニオール選手で固まっていたので、使い道があるのかと思っていたが、この選手もドリブル、パス、シュート、どの能力も非常に高く、19歳にして「第4のFW」の地位を奪取。貴重なジョーカーとして活躍した。翌2010年にはサイドハーフのレギュラーに定着。矢野選手ルシオ選手ミシェウ選手(part3で記載)と前線4人で組んだ「ファンタスティック4」は、新潟の攻撃ユニットの中でも屈指の強さを誇った。12節・山形戦で見せた切り返しからの左足で豪快に突き刺したゴールは個人的にはベストゴール。この年は11ゴールを奪い、改めて能力の高さを見せつけた。
しかし2011年は怪我もあり5ゴールで終わってしまうと、その年のオフに大宮へ移籍する。大宮では主力として活躍はするものの、2桁ゴールを記録することはできなかった。
その後、韓国に復帰し活躍していたヨンチョル選手。2018年には所属するチームがACL出場権を獲得し、ACLでヨンチョル選手の活躍を見られると思っていたが、ここでまさかの「新潟復帰」という決断を下す。J2下位に沈んでいた新潟にわざわざ復帰するという衝撃とともに、新潟への愛にサポーターは感動と感謝があふれたが、2019年は故障続きで活躍することができず、1年で退団。現在は、元新潟・小川佳純監督率いるFCティアモ枚方に所属している。
 
ジウトン選手(DF 2009)
セレッソから移籍してきた19歳の左サイドバック。持ち味はダイナミックなオーバーラップを活かした攻撃力、短所は守備全般という我々が想像する典型的なブラジル人サイドバックという感じの選手。
J1デビュー戦のFC東京では守備ではボロボロに崩されまくるも、攻撃ではチームのシーズン初ゴールとなるヘディングシュートを決めるという形で飾る。17節の川崎戦では途中出場であるにもかかわらず、守備で緩慢プレーをしまくったあげく、後半アディショナルタイムでの同点被弾を演出して、監督や選手からの信頼を失ったなどのこともあったが、「守備はザルだが攻撃力でカバーする」というプレースタイルで25試合2ゴールという一定の結果を残した。
オフに鹿島へ移籍。20歳、守備難のサイドバックを獲得するとは、鹿島もなかなかリスクを冒すものだと思ったが、鹿島でもレギュラーで出場していたので、やはり良いものは持っていたのだと思う。とはいえ、守備が改善されたわけではなく、結局のところ、鹿島も1年で退団することに。帰国後には女性関係でトラブルがあったようで、交際相手から熱湯をかけられ全身の20%を火傷するというネタを提供。2016年には甲府に移籍し、6年ぶりの日本復帰となったが、当時の甲府・佐久間監督から「使えねえわ」と言われたかどうかは定かではないが、加入2ヶ月で戦力外を喰らうという相変わらずのネタ外国人ぶりを見せてくれた。
 
エヴェルトンサントス選手(FW 2009)
当時リーグ3位につけていた新潟がシーズン途中の補強として獲得したのがこの選手。なんとこの選手、あのパリ・サンジェルマンからの使者である。ウソではない。本当だ。
パリ・サンジェルマンから選手が来たぞ!神外人確定!」と当時中学2年生だった私は相当喜んでいた。エヴェルトン選手が3トップ(ペドロ選手・矢野選手・大島選手)との連携で大活躍して新潟が逆転優勝。その結果、浦和ガンバに目をつけられたらどうしようと心配したものだった。そんな心配は杞憂に終わるのだが
 
リーグ戦 11試合に出場するもノーゴール。天皇杯では2ゴールを奪ったものの、それ以外に活躍したシーンはほぼなかった。
ペドロ選手の移籍に伴って、システムを4-3-3から4-4-2に変更したという不運もあったとはいえ、「途中加入する外国人選手に過度な期待はいけない」と勉強させてもらうには十分すぎる授業料だった。
よく考えてみると、ペドロ選手ガンバに移籍することを見越してエヴェルトン選手を取ったのかもしれないと、今更ながらに思う。新潟が途中補強をし始めたら、何か起きると覚悟をしておくことが大切だということを教えてくれた。
 
 
part3に続きます。
 
以上
 
 
 

アルビレックス新潟 名(迷)助っ人列伝 part1

アルビレックス新潟Jリーグ加盟してから21年。その21年の中には数々の外国人選手が在籍してきた。ここでは活躍した選手を中心に書いていくことにする。

 
セルジオ選手(DF 1999〜2002)
初期の新潟を支えたディフェンスリーダー。長身を活かしたヘディングを武器に守備はもちろん、攻撃でも活躍。2002年には6ゴールを決めている。また2002年には、外国人選手でありながら副キャプテンを務めた。
2003年には福岡へ移籍。その後はブラジルの名門、ヴァスコ・ダ・ガマやドイツのデュイスブルクなどにも在籍した。
ゴールを決めたあとのドヤ顔(?)がなんとなく面白かった。
 
アンドラジーニャ選手(FW 2001)
2001年の途中に加入した点取り屋。
その前年に大分で活躍していたこともあり、救世主としての活躍を期待されたが、見た感じ太り過ぎだったと思う。18試合6ゴールという結果で、川崎戦での豪快なミドルシュートVゴールなどの場面もあったので、期待外れというわけではなかったが、翌年に移籍した大分では39試合18ゴールを奪い、新潟の前に立ち塞がったという印象の方が強い。
 
マルクス選手(FW 2002〜2003)
新潟の歴史を語る上で欠かせない、「神助っ人」①
1997〜1999年には本田技研に在籍し、JFLで得点王に輝くなどの活躍をしていた。2002年に新潟へ加入。そのシーズンは36試合19ゴールを決め、いきなりJ2得点王。さらに2003年には41試合32ゴールと大爆発。2年連続で得点王に輝き、新潟のJ1昇格に大きく貢献した。シュートの上手さはJ2レベルでは群を抜いており、当時川崎にいたジュニーニョ選手とともに「反則外国人」の名をほしいままにしていた。また、プレースキックの精度も高く、フリーキックコーナーキックのキッカーを担当することも多かった。
その後、契約で揉めたことで2004年からは川崎へ移籍。川崎でも昇格に貢献するなどしたが、2006年の途中にはチームとの方針の違いからモチベーション低下を訴え、突如退団。その後移籍した東京Vでもそれなりに活躍したが、契約更新後に突然の横浜FM移籍。しかし、そこでは怪我もあり活躍できず。ある意味「お騒がせ外国人」とも言える。
 
アンデルソン選手(DF 2003〜2004)
192センチの長身を活かした空中戦の強さが武器のセンターバックセルジオ選手の後釜的存在として加入。確か最初は練習生だったと思うが、開幕戦からチームの中心的存在として活躍。2003年のチーム初ゴールを決めたり、2004年のチーム初ゴールの時には右サイドを駆け上がりクロスを上げ、鈴木慎吾選手のゴールをアシストしたりと印象的な活躍を見せた。また、昇格決定の2003年第44節大宮戦ではサポーターに「もっと声出せ!」とばかりに煽り、サポーターもそれに応えて大声援を送るというシーンもあった。
2004年2ndステージの前、攻撃陣強化のためにオゼアス選手を獲得したこともあって、退団。
 
ジェイウソン選手(FW 2003)
5月にC契約で加入した若手FW。正直、プレーの印象はなく、入れるべきか悩んだが、新潟の「謎のC契約外国人選手」の先駆けなので入れることにした。
ちなみに、新潟退団後はサントスアトレチコPRインテルナシオナルといった南米の名門に在籍しており、能力は高かったはずだ。
 
ファビーニョ選手(MF 2003〜2006)
新潟の歴史を語る上で欠かせない、「神助っ人」②
ピッチ内を走りまくり、ゴールを決めるとよく泣いた。反町監督「日本人より日本人」と評したファビーニョ選手は2003年に大分から加入した。攻撃はもちろん、守備でも労を惜しまず走り続けるスタイルは新潟が求めていたスタイルそのもの。もちろん、技術的なものも高く、2004年ホーム初勝利を挙げた2ndステージの広島戦では決勝点となるミドルシュートを決めた。また、2005年には古巣の大分戦でミドル2発を叩き込む場面もあった。新潟の左サイドのレベルを大きく引き上げたことは間違いない。
2004年と2005年は3トップの左ウイングというポジションが多かった。この時のブラジル人3トップはとにかく速すぎたようで、中盤以降の日本人選手が追いつかないスピードで攻め込んだ。
人柄も抜群で、新潟サポーターに愛されていた。
2006年、契約満了に伴い新潟を退団するが、最終戦大宮戦のロスタイムにゴールを決め、サポーターの涙を誘ったシーンは新潟史に残る名シーンだ。
 
エジミウソン選手(FW 2004〜2007)
新潟の歴史を語る上で欠かせない、「神助っ人」③
J1昇格元年となる2004年、チームのエースだったマルクス選手の後釜として加入したのが、このエジミウソン選手当時21歳の彼にマルクス選手の穴を埋められるかという不安があったが、杞憂だった。冷静に考えれば、21歳の若さでパルメイラスのエース格として 活躍していた選手の能力を不安に思う方がおかしかったのだ。
スピードパワーテクニック全てを備えた万能型フォワードで、1年目からリーグ戦29試合15ゴールナビスコ杯5試合4ゴール合計19ゴールの活躍。2年目の2005年にはリーグ戦33試合18ゴールナビスコ杯でも6試合4ゴールを決め、合計22ゴールと決めまくり、新潟のJ1残留に大きく貢献する。
2006年は怪我の影響でリーグ戦10ゴールにとどまるが、翌年の2007年にはリーグ戦29試合19ゴールを決め、チームの6位躍進に大きく貢献した。
圧巻だったのは2005年の磐田戦でのハットトリック。彼の能力の高さが存分に現れた試合だった。
その試合の紹介した記事のリンク↓

 

kka2b-sportswokataritai.hatenablog.com

 

2008年に浦和に移籍。浦和でも3年半でリーグ戦47ゴールを奪う活躍ぶりを見せていたが、浦和サポーターの評価は辛辣だっことをよく覚えている。さらに、クラブからの評価も不当に低く、2011年途中のカタール移籍は本人の意思ではなく、「売りに出された」というなんとも不遇な扱いを受けたりもしていたが、新潟史上最強のFWと言っていいだろう。

 

オゼアス選手(FW 2004)

昇格1年目の2004年、1s tステージを16チーム中14位で折り返した新潟。15試合で25失点していた守備陣にも問題があったが、16得点で終わった攻撃陣の方がより問題だった。そこで、攻撃陣の補強に乗り出す。それがこのオゼアス選手だった。元々はアトレチコPRサントスパルメイラスクルゼイロといったブラジルの名門クラブで活躍し、ブラジル代表歴もあるオゼアス選手。2002年の途中には神戸に移籍し、1年半の在籍期間中リーグ戦44試合19ゴールを挙げる活躍を見せていた。2004年2ndステージ前に得点力不足に苦しんでいた新潟に加入。前述したブラジルでの華麗なる経歴もあって、チームの通訳、渡邉基治さんには相当驚かれたそうだ。

新潟では、エジミウソン選手ファビーニョ選手とともにブラジル人3トップを形成。正確なポストプレー味方を活かすプレーでチームの得点力を大きく引き上げる立役者となった(2ndステージの得点数は31得点なので、1stステージと比べてほぼ2倍)。また、新潟中越地震直後磐田戦ではサポーターに届けるゴールを決めたことも印象的だ。

 

今回はここまで。

みなさんの思い出に残る外国人選手は誰でしょうか。

 

 

以上