前回から始めたこのシリーズ。今回は第2回。
前回の記事はこちらです。
kka2b-sportswokataritai.hatenablog.com
なお、基本的には数字で判断するので、ファンサービスとか性格とかそういったところはいったん考えずに選びました。
みなさんの中にも印象に残る助っ人外国人は数多くいるかと思うので、「いやいやこの選手じゃないでしょ!」、「あいつが1番凄かったんだけどな」というご意見、ご感想もいただけると嬉しく思います。
順番的には東日本から少しずつと言った形で。今回は、
⑩栃木SC
までの5チームを書いていくことにします。
個人的最強助っ人
FW マルキーニョス選手
(2007年~2010年在籍 J1 119試合59得点 2008年 J1得点王・MVP)
J1リーグ戦優勝8回、ルヴァン杯(旧・ナビスコ杯)優勝6回、天皇杯優勝5回、3大タイトルだけで19回の優勝。加えてACL優勝も1回達成しており、名実ともに日本最高クラスのプロサッカークラブ、鹿島アントラーズ。そのアントラーズには数多くの優秀な助っ人がやってきた。
住友金属時代にやってきて、チームを変革させた「神様」・ジーコ選手から始まり、高い得点能力を誇ったアルシンド選手やマジーニョ選手、伝説となった「リフティング→ボレー」を見せつけたレオナルド選手に「10番」としてチームの攻撃を牽引し続けたビスマルク選手といった華やかな攻撃陣。豊富な運動量と正確な技術で中盤からチームを支えたサントス選手やフェルナンド選手、レオシルバ選手と言った職人タイプ。正確なクロスで攻撃にアクセントを加えたり、高い守備力で相手の攻撃を摘み取ることでサイドを制圧し続けたジョルジーニョ選手やアウグスト選手。高いセービング能力でゴールに鍵を掛けるクォン・スンテ選手。ここに書いたメンツだけでも凄まじく豪華である。
そういった選手たちの中で個人的最強助っ人に選出したのは、マルキーニョス選手である。
2007年、アントラーズは直近2シーズンを清水エスパルスで活躍していたマルキーニョス選手を獲得した。実はこの時のアントラーズ、Jリーグ加盟後では初めて4シーズン連続でタイトルを獲得できずにいた「暗黒時代」だった。(2003年はA3チャンピオンズカップは制しているが、ここでは除外とする。)
そういったクラブ史に残るほどの屈辱を晴らすための「刺客」として招かれたマルキーニョス選手は、
・4シーズン連続で2ケタ得点
・2008年 J1リーグ得点王(クラブ史上初、2020年時点でクラブ唯一の得点王)
・2008年 J1リーグMVP
といった素晴らしい実績を残す。そしてその間にチームはリーグ3連覇(2007年~2009年)、天皇杯2回(2007年、2010年)の優勝、計5つのタイトルを獲得することになる。
高い得点能力でチームを牽引したマルキーニョス選手。この実績が示すとおり、アントラーズ第二次黄金期を到来させた功労者の1人である。
個人的最強助っ人
FW アンデルソン選手
(2006年在籍 J2 43試合17得点)
かつての「水戸ナチオ」が嘘のようなここ最近の水戸ホーリーホックのサッカー。木山隆之元監督の頃から改革を進め、長谷部茂利前監督や秋葉忠宏監督の下で熟成されてきた「迫力ある攻撃」は連動性を備え、J2各クラブを恐怖に陥れる。今やホーリーホックを「守備的なチーム」と呼ぶ者はいない。
しかしながら、そのホーリーホックで猛威を振るった助っ人は実は多くない。近年でこそジェフェルソン・バイアーノ選手やアレフピットブル選手のような優秀な大型ストライカーが在籍してきたが、それまでは大型ストライカーやテクニシャン系の選手を獲得するほどの資金力には恵まれていなかったというのもその理由の1つだろう。後に日本を代表する「DF」田中マルクス闘莉王選手が日本国籍取得前にサンフレッチェからレンタル移籍をしてきたこともあった(2003年)が、その年のチーム得点王は10得点を挙げた闘莉王選手だったほどには、攻撃力には悩まされ続けていた。
そんなホーリーホックに2006年やってきたのがアンデルソン選手だった。攻撃のサポートが少なく、独力でゴールを奪う必要のあったホーリーホックで17得点の大活躍。5月6日のコンサドーレ札幌戦ではクラブ史上初のハットトリックを達成。5月14日東京ヴェルディ戦ではクラブ初のヴェルディ戦勝利に導くゴールを決め、6月2日には当時「15試合無敗」・「770分連続無失点」という記録づくめだった横浜FCからゴールを奪い、1-0の勝利に大きく貢献。ホーリーホックの歴史を次々と変えていったストライカーだった。
⑩栃木SC
個人的最強助っ人
MF パウリーニョ選手
(2010年途中~2013年在籍 J2 91試合4得点)
2009年にJ2参戦を果たした栃木SC。
まだJ1昇格は未達成ではあるが、田坂和昭監督の下で堅守に磨きをかけている。決してビッグネームに恵まれたチームではないが、組織力はJ2屈指。近いうちにJ1昇格を果たすのではないかと期待されているチームだ。
そんな栃木だが、優秀な助っ人が多い。前年リーグ最下位の得点数だったチームに決定力という武器を持ち込んできたリカルドロボ選手に始まり、そのリカルドロボ選手の後釜的立ち位置で活躍し、栃木SC初のハットトリックも達成したサビア選手やそのサビア選手とコンビを組み、強力な攻撃陣を形成したクリスティアーノ選手と続く。ヴァンフォーレ甲府や柏レイソルのイメージが強いクリスティアーノ選手だが、日本初のクラブはこの栃木SCである。
J3降格という苦しい時期もあったが、ジョニー・レオーニ選手が堅守を築き上げ、ペチュニク選手が勝負どころで必ずと言っていいほどゴールを決めるという活躍を見せてJ2復帰を果たすと、ヘニキ選手が強靭なフィジカルを活かしたパワフルなプレーでチームを鼓舞し、ユ・ヒョン選手が堅守を支えて、今日までJ2の舞台を守り続けてきた。
そんな栃木SCだが、個人的最強助っ人はやはりパウリーニョ選手だ。強靭なフィジカルを活かしてボール奪取をし、卓越したパスセンスで的確な配球を行う。さらに強力なミドルシュートで相手ゴールを脅かす。ボランチに求めるもの全てを兼ね備えた選手だ。
プレーはもちろんのこと、人間性も抜群で、2012年にはチームのキャプテンに就任する。名実ともに「栃木の象徴」として、3年半もの間、チームを支え続けた。2014年に川崎フロンターレに移籍することになるが、その際も、債務超過が明らかになったチームに移籍金を残すために移籍したという逸話もあり、今でも栃木サポーターに愛されている選手である。
個人的最強助っ人
FW ダニエルロビーニョ選手
(2013年~2014年在籍 J2 49試合16得点)
2020シーズンからJ2復帰を果たしたザスパクサツ群馬。前半戦は最下位付近をウロウロしていたが、後半戦はチームの戦術がフィットしてきたことで一気に成績が向上。終盤6試合で5勝1分けの勝ち点16を稼ぎ、2021シーズンへの大きな希望を見せつけた。ここに決定力のある助っ人ストライカーが入ると、さらにチームが強くなるのではないかと個人的には期待している。
そんなザスパだが、助っ人が活躍するケースが多くなかった。活躍したと言えば、チームのJリーグ加盟に貢献したディフェンスリーダー・チカ選手。圧巻のスピードとテクニックでチームに推進力をもたらしたラフィーニャ選手。そのラフィーニャ選手とコンビを組んでチームの攻撃力を上昇させたアレックス選手といったところか。
そんなザスパで最も活躍した助っ人と言えばダニエルロビーニョ選手だろう。圧巻のスピード、ミドルシュートも可能とする強力なシュート力、172センチという身長を感じさせない空中戦の強さを兼ね備えたストライカーで、2014シーズンには37試合14ゴールと活躍。決して攻撃のサポートに恵まれているとは言えないザスパで2桁ゴールをあげた助っ人は、ダニエルロビーニョ選手のみだ。
個人的最強助っ人
DF ブッフバルト選手
(1994年途中~1997年 J1 127試合11得点
2004年~2006年 監督 J1 58勝21敗19分
2006年 J1リーグ優勝、2005年・2006年天皇杯優勝)
Jリーグ屈指の熱狂的なサポーターが選手を鼓舞し、豊富な資金力でチームを強化し続ける浦和レッズ。2006年にはJ1リーグ優勝を果たし、2003年・2016年にはルヴァン杯(旧・ナビスコ杯)を制覇。そして、2007年・2017年にACLを制し、日本で唯一の「アジアを2度制したクラブ」としても知られている。
そんなレッズは、1993年のJリーグ加盟から多くの助っ人選手がやってきた。西ドイツ代表・ドイツ代表としても活躍していたバイン選手やルンメニゲ選手、「ドリーム・チーム」と言われたFCバルセロナでも活躍していたベギリスタイン選手、ブラジル代表歴のあるワシントン選手といった大物。レヴァークーゼンでも活躍し、2007年にはJリーグMVPにも輝いたポンテ選手や、驚異的なスピードを武器に田中達也選手や永井雄一郎選手と「エメ・タツ・永井」の超快速スリートップを組み、2003年MVP・2004年Jリーグ得点王に輝いたエメルソン選手とバラエティに富んだ助っ人選手達がクラブの歴史に名を刻んできた。
そんなレッズの中における個人的最強助っ人はブッフバルト選手だ。
西ドイツ代表・ドイツ代表としてUEFA欧州選手権(現・UEFA EURO)に3回、FIFAワールドカップに2回出場し、1990年のワールドカップイタリア大会では優勝に貢献するほどの超一流プレイヤーだったブッフバルト選手は1994年のワールドカップアメリカ大会終了後にドイツブンデスリーガ・シュトゥットガルトからレッズに加入した。(ちなみにシュトゥットガルト時代には2度のブンデスリーガ優勝を経験している)
当時のレッズは2年連続Jリーグ最下位に位置していて、「Jリーグのお荷物」と言われていた状況だった。特に守備陣の崩壊ぶりは凄まじく、
1993年 36試合78失点
1994年 44試合94失点
という数字がそれを物語っていた。(当然ながら2年連続リーグ最多失点)
そこに加入したブッフバルト選手は188センチの高さを活かして空中戦を制し、圧倒的な対人の強さを活かして相手攻撃陣を封じるなど、「ディフェンスの要」として奮闘する。すると、
1995年 52試合72失点(リーグ14チーム中2位)
1996年 30試合31失点(リーグ16チーム中1位)
と劇的な改善を果たす。この間、レッズは1995年には4位、1996年には6位に躍進し、「Jリーグのお荷物」という汚名を見事に返上する。ブッフバルト選手自身も1995年・1996年のJリーグベストイレブンに選出される活躍ぶりを見せた。
そして2004年、レッズの監督として現場に復帰すると、
2004年→クラブ初のステージ優勝(セカンドステージ優勝)
ナビスコ杯準優勝
2005年→リーグ2位、天皇杯優勝
2006年→クラブ初のリーグ優勝、天皇杯優勝の2冠
という結果を残し、タイトル4つをクラブにもたらした。
選手としても、監督としても、レッズを高みへ導いたこの人が、個人的最強助っ人だ。
今回はここまで。次は13番目のクラブ、大宮アルディージャから。
以上